健康サービスを考える(その5):心拍変動の応用を考える

心電あるいは脈波から計算できる「心拍変動 (HRV : Heart rate variability、RRV : R-R variability)」が、「ストレス」を表す指標となる、というようなことが言われています。心拍変動とは、ストレスとは何でしょうか?

本稿ではまず、心拍変動とは何か、それが表すストレスとは何か、を概観します。そしてライフレコーダーに実装できる、心拍変動をもとにした評価指標の開発を考えます。最後にそのような評価指標を製品化するときの課題を考察し、幾つかアプリケーションも提案したいと思います。

はじめに

前回の「健康サービスを考える(その4):生体センサ、測定項目、コンセプトについて考察」にて、測定項目のコンセプトとして「馴染みの測定項目」、「健康状態のアドバイス」、「実感」の3つを考えました。

今回は「実感」に繋がりうる可能性がある測定項目として心拍変動に関して考えたいと思います。

「生活者向けライフレコーダーを提案する」立ち位置で、机上で推論していきます。従って既に製品開発において心拍変動を検討している方にとっては不十分な稿ですが、これから検討される方には、異論反論が浮かぶことも含めて、ご参考になるのではないかと思います。

心拍変動について

これまでは名前を知っているくらいで、過去の記事では「HRV(またはRRV)」として半ば濁しつつ書いてきました。今回、改めてネット上の記事を幾つか読んでみました。

心拍変動の応用事例

いきなりですが応用事例をご紹介します。

前々回の「健康サービスを考える(その3):生体センサのまとめ、提案、そして余談」に任天堂さんが「wiiバイタリティーセンサー」をペンディングにしたニュースを紹介しました。岩田社長の談から、wiiバイタリティーセンサーも心拍変動を利用しようとしていたのではないかと推測できます。(以降任天堂さんについての言及は、この推測に基づいたものに過ぎませんのでご了承ください。)

また日立さんの「疲労・ストレス検診システム」では心拍変動を利用したレポートを出力しています。

展示会にて、実際に私の「疲労・ストレス」を測定していただきました。HF、LF/HFの評価では「強度のストレス状態」と判定されてしまいました。

交感神経と副交感神経

最初に心拍変動が反映すると言われている、交感神経と副交感神経の働きを簡単に整理します。

  • 交感神経 : 「闘争と逃走の神経」と言われ、動物が獲物を捕ったり逃げたりするときに活発になる。人間の場合は運動時。交感神経が活発になると、心拍数、調節呼吸、血圧は上昇し、瞳孔は開く。
  • 副交感神経 : 交感神経とは反対に、食事の時や、睡眠時など休んでいる時に活発になる。副交感神経が活発になると消化器も活発になり、心拍数は下降する。

心拍変動とは

ネット上にある記事(論文)の中では、大分県立看護科学大学の吉武康栄先生、「生体信号処理のレシピ」(大分看護科学研究 4(1), 27 – 32 (2003))の、心電図の章が読みやすくまとめられていました。スタンダードな論文へのリファレンスもありますので、深く知りたい場合はたどれそうです。(しませんけど^^;)

心拍変動について要約しますと以下のとおりです。

  • 拍ごとに前の拍との時間間隔を測定し、時系列で並べると変動(ゆらぎ)が観測できる。それを心拍変動という。
  • 心拍変動を分散(標準偏差)で評価した場合、心疾患や加齢により減少する傾向にある。
  • 心拍変動を周波数成分で評価する場合、0.04-0.15 HzのパワーをLF、0.15-0.5 HzのパワーをHFとしたときに、HF が副交感神経活動、LF/HFが交感神経活動の指標になる。
  • 呼吸の影響が大きい。

ストレスとは

一般的な記事において、「心拍変動はストレスの指標になりうる」というように書かれている場合が少なからずあります。また任天堂の岩田社長の談では「『人間の脈の波形を見ると、自律神経の働きとして、どれくらい交感神経が働いていて緊張しているかということや副交感神経がどれくらい働いていてリラックスできているかということを定量化できる』ということが学術的に言われて」いるとのことです(第73期 定時株主総会質疑応答より)。

果たして「ストレス」、「リラックス」とは何でしょうか?

普通の人は「ストレス」というと、過労、対人関係などから受ける心理的ストレスを思い浮かべます。また「リラックス」というと余暇を楽しむイメージもあります。

確かに心理的ストレスにより交感神経活動が活発になるということはあると思います。しかし以下の場合はどうでしょう。

  • ストレスをアルコールやタバコで発散する。(アルコール、タバコは血圧が高くなります。)
  • 映画を見て感動して、涙が流れる。心拍数が上がる。

2点とも「リラックス」が目的だと思いますが、交感神経活動が活発になり生体にはストレスのようです。

また前述のとおり、交感神経は「闘争と逃走の神経」なので自然界ではその活性化は必須です。人間界でも状況によっては緊張状態が必要になります。

以上より心拍変動の文脈での「ストレス」という語は、以下のようにとらえたほうが良いかも知れません。

  • 交感神経が優位になることそのもの。
  • 必ずしも悪いものではない。

評価指数の開発

では心拍変動から得られる測定項目をどう利用したらよいでしょうか?

世間では生体情報や心理的情報から、「ナントカ度」のような適当な数値化をする場合が多々あります。

本章ではそのような、アプリケーションで利用可能な評価指数の開発方法を考えます。

目的変数

人間工学的な研究論文では、被検者に様々なタスクを課し、それによるLF/HFの変化が起こるか、有意差があるか、を問うていたりします。しかし一般的な製品にするには、単なるLF/HFの表示ではなく、わかりやすい評価指数にする必要があります。

結局のところ、評価指数は主観的な心理尺度に基づいたものになるだろうな、と思っています。

「リラックスしている」「緊張している」「ワクワクしている」「不安である」などの状態を表す言葉と、程度を表す言葉や数値と組み合わせて提示し、それを被検者に選択させるイメージです。そのような心理的尺度も、研究もすでにあるでしょう。

評価指数は数値を想定しています。心理尺度の区分ごとに閾値を設定し、評価指数が納まる区分を正解と比較して評価指数の精度とします。実際のところ閾値は最も正解率が高くなるように恣意的に設定できます。

その評価指数、心理尺度を目的変数として、それを算出するモデルの構築を考えます。

説明変数

HF、LF/HFは説明変数になりますが、そのままでは使えません。

先の「生体信号のレシピ」では、以下の様な問題点をあげています。

  • 研究グループによって周波数分析の方法(FFTとか最大エントロピー方とか)が異なる。
  • 被験者に呼吸を一定にしてもらう必要がある。
  • 心拍数の増加によってLF成分が減少してしまう。

2点目の呼吸に関しては、呼吸による胸郭内の圧力変化が即心拍に影響します。ですので、呼吸の周波数成分も分析し、心拍変動の周波数成分自体を修正する必要があるかもしれません。

また生体信号のレシピでは、「近年、呼吸制御や心拍数にも関係なく自律神経活動動態を”絶対値”で評価する方法も開発されつつあり、・・・」として、「T-E analysis」なる方法を提唱している論文にリファレンスを貼ってあったりします。このような方法を試してみてもよいかもしれません。

心拍数自体、呼吸数、または血圧や発汗の程度も交感神経の活動によって上昇します。これらも説明変数になり得ます。

心拍変動から得られる数値およびこれらの測定項目の標準的な値(例えば平均値)は、人それぞれ違います。従って値を評価する場合は絶対値ではなく、コントロール(基準となる値)からの変化になると思います。では何を持ってコントロールとしたらよいでしょうか。

思いつくところは、以下の3つです。

  • 単純にその人の平均値
  • 一番、副交感神経優位であろうと推測される時の値(例えば睡眠時)
  • 長期間測定してその人なりのサーカディアンリズム(その時刻における平均値)が掴めたら、その値。

3点目に関しては、季節変動もあるかもしれませんね。

モデルの作成

健康サービスを考える(その2):医療・健康データについて」の「データの処理」の項に書きましたように、頭を捻ったり計算機を回したりして、ある程度の精度で目的変数が推定できるモデルを作ります。

しかしモデルはひとつとは限りません。要は目的変数の予測精度が上がればよいのですから。

運動中か静止中かによって評価は異なりますので、加速度センサから推定できる活動状態によってモデルを切り替える事を考えます。場合によっては、LF/HFより心拍数そのものが目的変数に寄与しているかもしれません。

また年齢や性別ごとに異なるモデルを準備する必要があるかもしれません。

課題

以上、適当な評価指数を得ることを考えてきましたが、その評価指数の実用化に向けての課題を考えたいと思います。

実感に合うか?

重要な点は、評価指数が「ユーザーの実感に合うかどうか」です。

活動量や歩数は「運動した」という実感に合います。体温は「だるい」という実感に合います。体重は「最近太り気味かも?」という実感に合います。

評価指数が「緊張」「ワクワク」「心理的ストレスを感じる」というユーザーの実感と合うのであれば、その評価指数はヒットするでしょう。さもなければ、「ふーん。そうかもね。」で終わるかもしれません。

こればかりは実際に使ってみないことには評価できません。

一点リアルタイム性については考えられます。例えば「緊張した」と自覚したときに評価指数を見て変化が確認できれば、ユーザーは「実感と合っている」と思うでしょう。

リアルタイム性において、心拍変動の周波数解析は微妙なところです。

例えば分解度を0.04Hzとすると25秒のフレームが必要になります。日立さんのシステムでは「標準2分30秒、条件によっては最短1分」掛かります。(フレーム内で正しく心拍がとれなければ測りなおしになるでしょうから。)

呼吸センサ

前述のように、心拍変動の周波数解析においては呼吸の影響が大きそうです。それを除くには別途呼吸センサが必要になりますが、これが課題になります。

前稿までに提案してきたような腕時計型では、現在のところ呼吸を測れる技術はありません。

顔周りあるいは胸につけた呼吸も測れるセンサと連携できればよいのですが、2つに別れるのは不便です。そもそも胸にセンサを貼るのであれば、腕時計型センサは不要になります。

結局のところ、呼吸による補正をしないことになるのでしょうか。

開発データの公開

開発した評価指数が、単なる「ナントカ度」では信憑性はありません。今まで「適当な評価指数」と表現してきましたが、それが「妥当な評価指数」ではなく、「テキトーな評価指数」になってしまいます。

そこで評価指数の開発についてのデータの公開を考えます。

社会的発展を願って「生データ全てオープン」ができるのであれば興味深いですが、普通の企業であれば業務秘密にします。また調査データについては被検者の同意を得ることが困難だと思います。

少なくとも論文に見られるような、以下の開発データの公開があれば良いと思います。

  • 評価指数の説明 : モデルの概要、入力と出力(肝心なところはブラックボックスでも可)。
  • 調査方法 : 被験者集団の概要とサンプル数(N)、測定方法、期間
  • 結果 : 正解率や他の評価指数との比較など

バッテリー

評価指数を常に得るためには、センサを常に測定状態に指定なければなりません。またFFTのような計算をフレームごとに回さないといけません。(そのような計算はモバイルに任せても良いかもしれませんが、モバイルのバッテリー問題になります。)

結構バッテリーが食いそうなので、間欠的(例えば10分毎)に測定するとか、登録したイベント(起床アラームやカレンダーアプリのイベント)の前後は詳細に測る、などの工夫が必要かもしれません。

とはいえ、ライフレコーダーであるということを考えると、24時間くまなく数値化できたほうが面白そうです。

個人差

「モデルの作成」の節に挙げましたが、生体情報なので個人差があることは容易に予想できます。心理尺度が変化したとしても、説明変数がほとんど変化しない人もいるかもしれません。

wiiバイタリティーセンサーがペンディングになった理由も、個人差に関連するものです。

標準のモデルは、多数の被験者から作られた一般的な年齢別のモデルになると思います。それとは別に、個人が長期間に渡ってセンサを装着してデータを貯めれば(ユーザーによる心理尺度の記録も必要ですが)、その人固有のモデル(係数)が作れるかもしれません。

ユーザーによっては、標準の評価指数よりも固有の評価指数のほうが「実感に合う」可能性が考えられます。

アプリケーション

最後にアプリケーションです。

これも実際のところは、データを眺めたり自分で使ってみないことにはアイデアは湧きません。多人数でのブレインストーミングも必要です。様々なアイデアを実現するために、APIをオープンにするのが良いと思います。

就寝時の交感神経の活性度が血圧とともに測定できれば「健康状態のアドバイス」にもなり得ますが、「実感」のコンセプトでひとりブレストしてみます。

  • 勝負師(スポーツ、棋士・雀士、ステージパフォーマー)向け、本番前の状態表示アプリ
  • IMEとの連携。定型文、顔文字のサジェスト
  • スケジューラーや日記アプリとの連携
  • 健康法や運動の効果の確認

一点目は著名人がエバンジェリストになってくれそうなので、マーケティング的にも期待できそうですね。

まとめ

心拍変動にもとづいた評価指標の開発について考えてみました。

評価指数には、単なるHF、LF/HFのみでなく、心拍数、呼吸、活動状態(あるいは発汗も)なども加味して、目的変数の予測精度を挙げることを考えます。そしてユーザーの「実感に合う」数値になることを目指します。

しかし呼吸を同時に計測することができず、精度が得られないかもしれません。またバッテリー容量の問題で、常時測定はできないかもしれません。

様々な「実感」となりうるアプリケーションが提案可能だと思います。しかしそれが怪しいアプリにならないように、開発データの公開はして欲しいところです。

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